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小沼の身禄茶屋
小沼、現在の西桂町は江戸、明治、大正時代
谷村と吉田の中間点にあたる茶屋町でした。
明治の終わりから大正初めにかけてはテト馬車の乗り換え地点でした。
その為、当時は茶屋がありました。
身禄茶屋(下図:明治41年富士山スケッチに描かれている)は
一乗寺の近くにあった茶屋と思われます。
身禄茶屋以外には下のような休息所が記録されています。
文久4年から明治9年の富士講の富士山日記*には
小沼の林家(半右衛門)でたびたび小休止していることが記されています。
(*埼玉県志木市宮岡夘之助著富士山日記)
明治5年には森屋で休憩したことが「田子山富士講道中記」**に記録されています。
(**志木市の文化財22集田子山富士上)
これらの休息所が現在のどこかは未調査です。
身禄茶屋があったという一乗寺の境内には現在も上の絵のような小川が流れています。
そして、富士山がほぼ同じような大きさで見えます。(下の写真)
富士山と手前の倉見山との位置からすると上の絵の身禄茶屋は
一乗寺の境内ではなく、もっと本通り側からの位置のように見えます。
富士講の人たちは小沼で小休止し小明見、愛染を通り
吉田に入りました。
ところで上の「田子山富士講道中記」には
こんな記録もありました。
「金拾銭アイゼンや 茶」
「金拾銭うどん代」
明治初期アイゼンにも茶屋があったのでしょうか。
このアイゼンは現在の富士吉田市下吉田の「愛染」と思われます。
この「愛染」は月江寺の領内で、吉田の入り口だったようです。
その茶屋でうどんをだしていたと読み取れます。
吉田うどんが当時からあったとも考えられます。
明治時代の東京では蕎麦とうどんの屋台がありました。
吉田うどんもそのころからあったとしても不思議ではないですね。
身禄茶屋の一枚の絵から紐解かれる過去はおとぎの国の
扉を開くようです。
参考資料:志木市の文化財第22集「田子山富士」
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