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世界遺産候補になった富士山 ポストカードの吉田口登山道
江戸の登山図に富士山信仰を思う
2007年1月29日政府は世界文化遺産暫定リストに「富士山」を載せる決定をした。自然遺産では資格無しとして候補にもならなかった富士山だったが、なんとか世界遺産登録への第一歩がスタートした。
左の絵図は吉田口登山道の北口本宮浅間神社から山頂までの信仰登山図だ。下図の浅間神社には、現在取り壊されて存在しない仁王門が画かれている(多分左下の鳥居手前の「総門」が仁王門だろう。現存する随身門はこの図では「中門」と表記されている)ので、絵図の内容は江戸時代の様子を表している。発行は明治29年だが、おそらく江戸時代の書き物を参考に描いたものだろう。
今後は今まで以上に、このような信仰登山の歴史を記録していく必要がありそうだ。

富士山信仰の歴史は古い。浅間神社が信仰の象徴だとすると、その成り立ちは紀元前にさかのぼるので、伝承として富士山を信仰の対象とした歴史は紀元前からあったものといえるが、正確に検証する記録はないので、本当のところは今後の検証を待つしかない。古い記録は聖徳太子(西暦574−622)が黒駒に乗って富士山頂に飛んでいったという言い伝えが917年(延喜17年)「聖徳太子伝暦」に書かれている。役小角(えんのおづぬ)が富士山に登ったと伝えられているのも西暦700年頃のことだが、大島から富士山に飛んでいったとのことなので本当のこととは信じられない。実際に山頂に登ったと考えられる記録は平安時代、都良香(みやこのよしか)が残した「富士山記」だが、これは信仰の記録と直接には結びつかない。信仰の記録として残っているものとしては西暦1149年(平安末期)末代上人(まつだいしょうにん)が山頂に埋経しようとした記録が「本朝世紀」に残っている。実際山頂からは承久(西暦1219〜1922年)の年号が記録された経巻が見つかっている。

左の登山図に記録された富士信仰は室町時代から江戸時代にかけて富士講を興した角行(西暦1541?〜1646)によって始められた。角行から六代目の弟子食行身禄(じきぎょうみろく)以降関東を中心に広がり、江戸時代後半には江戸に八百八講と呼ばれるほど盛んになり、多くの信者が富士山に登拝した。この図はそんな隆盛を極めた時の登拝の様子を画いたものだ。明治時代も富士講は盛んだったので、その人たちに江戸時代の参詣の様子を画いたものとして販売されたものではないだろうか。図をクリックすると拡大図表示

江戸の富士講者は北口の吉田口登山道を上り須走り口に下山し、大山に詣でて帰るコースをとった。明治になり、中央線が大月まで延びて、大月から吉田まで馬車鉄道ができると信仰に観光を兼ねた参詣で北口の入り口上吉田は大いににぎわった。この頃から昭和初期にかけて観光土産として登山道や登拝の様子を写したポストカードが多数販売されている。現在、そのポストカードは当時の様子を伝える貴重な記録として残っている。また、登山の注意や山小屋の案内を印刷した「登山の栞」も多数発行された。(下)

現在はこの当時と違い、五合目までバスで登ることができ、山小屋には自動販売機もある全くの観光地となっているが、衰退したとは言え、今なお富士信仰で登山する人が白装束で参詣する姿を見ることができる。


ポストカードに見る吉田口登山道 山頂

胸突き八丁を登る参詣者 吉田警察発行 登山のしおり(大正14)