富士みずほ通信 今月の表紙−目次-マル得情報−写真館−絵画館−登山−周遊−温泉−歳時記−今昔 |
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ポストカードに見る大正頃の吉田口登山道 | 世界遺産候補富士山 | ||||||||||||||||||
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多分大正から昭和初期のポストカードだと思うが、そこに残る写真を使って当時の吉田口登山道を見てみよう。 左の写真は北口本宮浅間神社大鳥居から随身門を写したものだ。左下は珍しいアングルだが横から浅間神社を撮ったものだ。 図3と4は馬返しだ。鳥居は現在(2007年2月)も同じ位置にあるが修復されている。図3の建物は残っていない。図5は1合目の鈴原神社で鳥居の左の建物は現在も残っている鈴原神社。右の建物は山小屋らしいが、現在は残っていない。この鳥居も現在ないが、鳥居から下に伸びる登山道が復元整備 |
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図1:北口本宮浅間神社 | |||||||||||||||||||
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図2:北口本宮浅間神社 | 図3:馬返し | 図4:馬返し(鳥居上から) | 図5:1合目 鈴原神社 | ||||||||||||||||
されている。右の図6〜8は3合目の茶屋で、このあたりで昼食をとる時間帯になったようで、中食堂と呼ばれていた。図6は図7中央奥の神社裏から茶屋を撮ったもの、図8の右側茶屋奥に遠くの山が右下に下っている様子が見える。当時はこのように見晴らしが良く、眼下に河口湖などを一望できたようだが、現在は手前の樹木が伸びて視界は悪い。 | ![]() |
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図6:3合目 | 図7:3合目中食堂 | 図8:3合目中食堂 | |||||||||||||||||
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左の図9は現在の滝沢林道との交差点より少し下にあった茶屋天地界、この前後には今も建物の崩壊した跡が数ヶ所残っている。昭和39年スバルライン開通以降登山客が激減したために、放置された茶屋跡だと思う。右の図10、11は小御岳神社、下の図12は6合目の石室、ここから上は石で建物を囲う石室となる。 図13は東洋館、図14は現在は8合目となっている蓬莱館、当時は7合目だった。 |
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図9:5合目天地界 | 図10:小御岳神社 | 図11:小御岳神社 | |||||||||||||||||
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図12:6合目石室 | 図13:7合目東洋館 | 図14:7合目蓬莱館 | 図15:8合目郵便局 | ||||||||||||||||
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合目の解釈は時代によって変化している。現在の7合目は長すぎて、7.5合目などと登山を励ます呼び名をつけて欲しいところである。図15は8合目の富士山ホテルと郵便局、左は吉田口山頂のすぐ下にある急傾斜地、胸突八丁、ここを登ると山頂の久須志神社にでる。 トップ |
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図16:胸突八丁を登る参詣者 | 図17:吉田警察発行 登山のしおり(大正14) | ||||||||||||||||||