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巴水の描いた吉田の富士「吉田の雪晴」にみる

      富士吉田市新倉の今昔

川瀬巴水は明治16年生まれ、昭和32年に没した大正、昭和を代表する風景版画家の一人だ。日本全国の風景を描いているが、富士山周辺からの富士山もたくさん描いている。現在でも後刷りが製作されている人気の作家である。
富士吉田市内からも左の「吉田の雪晴」を描いている。
風景画で富士吉田市内から描いたものは比較的少ないので、これは貴重な版画と言えるが、いったいどこから描画したものだろう。
最初にこの版画を見たときの直感は「新倉」から描いたものだと考えたが、しばらくは描画場所を求めることをしなかった。
ところが、ある写真集を見ていると、この構図と全く同一の写真を見つけたので、これは、描画当時ここが富士山のビューポイントだったのだろうと考え、富士吉田の今昔の一つとして描画場所を探すことにした。
左上から二枚目がその写真だ。
この写真集は昭和10年清水緑氏が出版したもので、富士山麓の各地から富士山を撮影しているものだ。その中の一枚が左の二枚目の写真だ。
写真は巴水の描いた方向より、やや右に向いている。巴水の版画の中央にあるわらぶき屋根の民家群が写真では、画面左に配置されている。両者を比較すると明らかにほぼ同じ場所から捉えていることが分かる。
手前は桑畑だ。
三枚目の写真は今月(平成20年2月)に撮影したものだ。写真中央の民家は昭和10年の上の写真と殆ど変わらない。しかし後方のわらぶき屋根の家はかやぶきではないようだ。現地で調べてみると、後方の高いわらぶき屋根の家は正福寺の本堂ではないかと思われる。正福寺は昭和25年にかやぶき屋根を銅板ぶきに改装している。後方の林が現在の写真では高すぎるが、これは樹高が伸びたことと、カメラ位置による違いが原因していると思われる。
巴水の絵と清水氏の写真の違いは、同時期のものなので、巴水が描くときに構成を変えているものと考えられる。
下左の地図は現在の地図。赤丸が描画地。
下右は昭和22年の航空写真。赤点が描画地。昭和10年と家並みの状況はそれ程変化ないものと考えられる。この航空写真を見ると、当時の新倉は戸数も少なく、描画した場所から後方(写真では)には民家がなかったと考えられる。今のように電柱もなく、わらぶきの民家と富士を描くのには絶好のポイントだったのではないだろうか。
現在は、この近くにある忠霊塔が富士山の撮影ポイントになっている。富士山麓で巴水が残した絵画から、描画ポイントを回ってみると面白い発見があるかもしれない。
赤丸が巴水が描いたと思われる地点。→印は富士山の方向
昭和22年の航空写真。赤点が描画地
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