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航空写真に見る

富士吉田市竜ヶ丘の変遷

昨年2005年知人から一冊の分厚い本をいただいた。富士吉田市コミュニティマップ(1988年発行)でした。その中には、なんと昭和22年、43年、53年、62年の富士吉田市全域の航空写真が掲載されていました。これらの写真を使って富士吉田市の変遷を見ていきます。今回は私の育った竜ヶ丘です。
昭和22年
左は昭和22年の富士吉田(市制発足前です)、著者が生まれる前です。中央の武蔵航空周辺が現在の竜ヶ丘です。軍需工場だった武蔵航空は昭和20年7月30日米軍の機銃掃射を受け、12名が犠牲になったそうです。現在の竜ヶ丘会館横に殉難碑が建っています。(下写真)富士吉田も空襲を受けたんですね。この空襲の翌月8月15日終戦を迎えました。
富士山は日本の象徴ですが、戦時中は攻撃目標の目印でもあったんですね。北富士演習場には当時飛行場もあったようです。

昭和43年
さて、左の写真は時代も変わって昭和43年、上の写真から21年後の竜ヶ丘周辺です。中央高速が建設中です。富士吉田駅の右には開校間もない北富士高校(2006年現在の富士北稜高校)が見えます。現在は空き地となった旧富士吉田市立病院が見えます。
翌昭和44年中央道富士吉田線が開通します。
平成13年
左の写真は現在と言ってもちょっと古く2001年(平成13年撮影:富士砂防工事事務所作成の「富士のすがた」)の竜ヶ丘周辺です。富士急ハイランドの上(西原)も住宅で埋まり、国道139号(通称バイパス)の右にも住宅が広がっています。中央高速は東富士五湖道路に続いています。
昭和22年から60年弱でずいぶん変わったものですね。
これからは人口が減少するようですから、新しい場所を開拓するのではなく、古い場所の再利用(土地のリユース・リサイクル)が必要かも知れませんね。
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