死に向かう行進、生への行進

2001年になって友人が二人亡くなった。
一人は癌で、もう一人は、多分、自殺だった。
癌の友人は同級生で51才だった。
もう一人は57才だった。平均寿命が80才近くなったのに50才台で亡くなるとは
さぞ悔しかろうと思う。そう言えば、昔、精密機械の工場にいた頃、20才台の友人が
亡くなった。彼は結婚して、子供ができた直後、病気で亡くなった。
振り返ってみると、既に、何人も他界してしまった。
最近、死を良く考える。
私を含め、今生きている人は、みな死に向かって生きている。
いずれ必ず死ぬ。ただ、早いか遅いかである。
同級生の友人、20才台で亡くなった彼、57才の友人のように
いずれ私も死を迎えるのだ。
しかし、53才になる今まで、このように死を考えたことはなかった。
近くでは父親が10年ちょっと前に亡くなった。
父は、倒れて死ぬ直前まで、1週間ちょっとだったが
私も、家族の誰をも識別できなかった。うわごとでしゃべっていたのは
父の子供の頃の経験したことだけだった。まるで生まれたての子供だった。
死ぬ直前、我に返ったように子供の私を理解した。
それが最後だった。そして、意識を失い死亡した。
その時は、自然と涙が出て悲しかった。しかし、それでも
自分がやがてその立場にたつとは考えなかった。
50才を過ぎて、友人が相次いで亡くなったのと、自分の体力が
自覚的に弱くなっていることを意識したことによって、否応でも
死を考えざるをえなくなったようだ。
60才まであと7年、70才だと17年、80才までだとまだ27年などと考えるようになった。
ニューヨークのテロで数千人の人が死亡した。広島や長崎の原爆では一度に数十万人が亡くなった。
その瞬間、亡くなった人は何を考えるだろうか。
今日、この瞬間にも、交通事故などで、大勢の人が亡くなっている。
どのような原因にせよ、死亡すると、その人の人生はそこで終わる。
生を受けてから死亡するまで、人によって長かったり、短かったりする。
この人生とはいったいなんだったのか。
100年前にも、1000年前にも、人々は生をうけ、死に向かって生き、やがて死亡した。
今の私は生きている。死へ向かって生きている。
やがて私も死を迎える。その瞬間私は全て終わる。
そのとき、私は自分の人生を何と思うのだろうか。
計り知れない問答が私の頭の中で繰り返される。
癌で亡くなった友人は、死亡する数日前、私に何か分からない言葉を投げかけた。
彼の言っていることは分からなかったが、私は彼の手を握った。
私は何と言っていいか分からなかった。
彼は、私を凝視して、何かを言っていた。しかし、彼の口からは
アー、とかウーとか、その意味を読むことはできなかった。
私は「何をやってるんだ、こんなところで」「もっとしっかりしなければ」と
彼に言いたかったが、彼の様子は、あまりにも痛々しすぎて言葉を出すことはできなかった。
ただ、しばらく彼の手を握っているだけだった。
彼は病気になる前、非常に気丈だった。負けん気が強く、人の面倒も良く見た。
くじけそうな環境の時も「必ず勝ってやる」と前を向いていた。
病床の彼の鼻からはチューブが通り、握り返している手に力はなかった。
私を凝視する眼もなにかしらうつろだった。
ほんの少し、何か訴えようとするその体から、昔の元気な頃の彼の様子が
思い出され、ますます私は言葉を失った。
しばらく握っていた手を彼の胸元に戻した。
彼は、また目を閉じた。
奥方に形どおりの「お大事に」と挨拶したが
もう最後かも知れないと思って病院を後にした。
数日後、出張先で彼の訃報を聞いた。
「やっぱり」と思った。
51才早すぎる死だった。
彼は私が訪れたとき、死に向かっていた。
痛みを和らげるために、強い薬を止めていた。
外から見る限り、非常に穏やかに寝ていた。
彼には少し前、奥方から癌だと告知されていた。
私たちの言葉が分かるのかどうかも、全く分からなかった。
私と奥方の会話に気づいて目が覚めたのか、
彼は私を見た。そして、何かを訴えた。
それは、私には「生きたい」と言う訴えのように聞こえた。
死に直面しても尚、必死に生きたいと訴えていたのではないか。
もしかすると、彼は、死を意識していなかったかも知れない。
しかし、彼は死と向かい合い、だからこそ必死で戦っていたのかも知れない。
「生きたい」と
生を受けた人の本能として、死に向かい、「生きたい」と行動していたのだろう。
私には孫がいる。まだゼロ歳の孫は、なんでもかんでも口にする。
そして、強くすう。母の乳房ならお乳も出るが、私の指でも
手にすると口にもって行き、強くすう。
指先が、吸い込まれてしまうほど強い吸引力だ。
ある日突然人間として生まれた彼は、生も死も考えていないだろう。
身体に触れるものを握り、口にもって行き、ただひたすら強くすうのだ。
他界した私の父や、友人が死の直前に見せた必死な形相や、何かしら分からない
訴えは、この孫の吸引と同じではないか。
人間は生を受けた瞬間から死へ向かっている。
死へ向かっているからこそ、生きようと必死になっている。
また、必死になれるのだろう。
死を迎えたら、生には戻れない。
二人の友人の死は、私に、改めて生を問い掛けた。
生きている間必死に生きよう。
死は予告なくやってくる。
これは生を受けたものの宿命なのだ。
だから、生を受けている間は、必死に生きるのだ。
二人の友人の死で、改めて見つけた回答だった。

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