富士みずほ通信 今月の表紙目次-マル得情報写真館絵画館登山周遊温泉歳時記今昔
歴史と自然野鳥山野草木-なんでも館吉田うどんクイズ富士山検定考ショッピング(広告)

情報源過去総目次リンクご挨拶メールプライバシーポリシー

なんとなくレトロな臭いのする
「テト馬車」

私が物心ついた頃には、すでにテト馬車と呼ばれる鉄道はありませんでした。
テト馬車が山中湖まで通っていたことを聞いたのは、最近のことです。
山中在住のお年寄りにお聞きすると、確かに通っていたと言われましたが
詳しい場所などは分からずじまいで、なにかのどに骨がつかえたような気分でした。
ある日神田の古本屋さんで、古い地図に目を通していたとき、山梨県の地図を見つけました。
昭和一桁の時代の地図でしたが、テト馬車の軌道が載っているではありませんか。
早速、その地図を買い求めました。
その地図で「馬車鉄道」と表示されていた鉄道は山中湖の籠坂峠まで伸びていました。
さらに、富士吉田から鳴沢までも鉄道が引かれていました。
文字通り、鉄道上の車を馬が引いて走ったのが「馬車鉄道」で、
路線の場所は異なりますが現在の富士急行のさきがけと言えるでしょう。明治から大正にかけて撮られた上吉田の写真にもこの鉄道が写っています。ちょうど吉田の本町通から金鳥居の下を通り、現在のバイパスに向かって鉄道が引かれていた様子を見て取れます。左の写真は瑞穂坂(暮地の坂のことでしょうか。右肩の小御岳と思える位置からすると新屋方向とも思えるのですが不明です)を下るテト馬車の絵です。(明治41年富士山スケッチより)

大正3年の「鉄道旅行案内」に出ていた大月〜御殿場までの鉄道が描かれた地図。これは馬車鉄道と思われる。

現在上の鉄道の跡は残っていないようですが、上吉田から鳴沢に通っていた材木を搬送するための鉄道跡は林の中に残っています。

(今回この軌道の写真を見つけたので紹介します。)

下の白黒写真です。鳴沢村他の恩賜林組合の事業報告書(昭和8年7月)に載っていたものです。これを見るとこの軌道は馬車でなく人力軌道ですね。この軌道跡は、当時の地図と現在の地図を重ねてみると現在の富士林道になっているようです。

(2004.6.13追記)

なぜテト馬車と呼ばれるのか分かりませんが
一説によると、この馬車についていたラッパの音がテトーテトーと鳴るので
テト馬車と呼ぶそうです。てつどう馬車を略してテト馬車だとも思いましたが
本当のところは分かりません。トロ馬車とも呼んでいたようです。
90才前後の人に聞くと、子供の頃乗ったと言います。
富士吉田から山中に行く途中に当時富士競馬場がありました。
そこへ行くのに乗って行ったと聞きました。
テト馬車は鉄道と言っても、現在の鉄道とは比較にならないぐらい簡単なもので、
良く脱線したようです。脱線すると、乗客が手伝って元に戻し走ったと伝えられています。
急な坂では、みんなが後を押して登ったそうです。
しかも、大月から小沼(現在の西桂)までは富士馬車鉄道、小沼から籠坂までは
都留馬車鉄道と経営が異なり、軌道の幅も異なっていたために小沼で
乗り換えなければならなかったようです。(今尾恵介著「地形図でたどる鉄道史」)
当初、大月から吉田までの時間は4時間近くかかったとのことです。
現在(2002年)は富士急行の特急が33分ですので、大変な違いですね。
テト馬車は現在の地図には載っていません。昭和4年富士急行の前進となった
富士山麓鉄道が開通、テト馬車の通っていた道は自動車道路専用となり撤去されたからだと思います。それより先にテト馬車は大正10年電化によって鉄道に変っていますのでテト馬車としては大正10年が最後だったのかも知れません。
吉田から鳴沢方面に通っていた材木搬出用の鉄道軌道の一部が残っているようです。テト馬車の記録となるのかも知れませんね。
明治から大正にかけて須走にあった旅館穂積館がみやげ物として配ったと思われる
扇子があります。それには、大月から須走まで馬車鉄道が走った絵が描かれていました。また、大正3年に発行された「鉄道旅行案内」の中にあった地図では大月と御殿場の間に鉄道が走っていましたが、これは馬車鉄道です。

ちなみに大正3年大月〜吉田の馬車賃は51銭だったそうです。

この頃はテト馬車が交通の花形だったのでしょう。
「テト馬車」なんとなくレトロな臭いのする呼び名ですね。

穂積館が配ったと思われる扇子に描かれたテト馬車

2002年5月目次へ

○瑞穂通信表紙○瑞穂通信目次