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西湖と精進湖の誕生物語
噴火を感じさせない現在の精進湖→
むかし
むかし
今から1200年ぐらい前のこと
西湖と精進湖は「せの海」と呼ばれる一つの湖でした。
山麓の木々は透けるような新緑の葉に覆われて、見上げると陽光がまぶしく
富士山頂には多くの雪が残っていました。

しかし、穏やかな気候にかかわらず鳴沢の長老は、空を見上げて、なんとなく不安でした
。親から東方の山(今の小富士周辺)の噴火被害を伝え聞いていたからです。
そして、このところ、その言い伝えと同じように、地震が続いていたからです。

「あの時は、激しい地震だった。ドドーンと言う音で、東の空を見ると、白い煙がもくもくと立ち昇っているのが見えた。火口から流れた溶岩流によるのだろうか、赤い火が左に進んで行き、たちまち白い煙幕で空が覆われてしまった。このとき東方(今の忍草周辺)では、大変な被害を被ったそうじゃ、その時は風上じゃったから鳴沢は助かった」「この地震は大丈夫だろうか」

鳴沢から見た貞観の噴火
(イメージ)
長老の不安は的中してしまいました。ドドーンと言う激しい音とともに、長尾山から数十メートルにも及ぶ噴火が始まったのです。大きな団子状の煙が、次から次へと立ち昇っていきました。
噴火口からは灼熱の溶岩が噴出し、本栖湖や鳴沢に向かって炎と煙の帯をつくっていきました。

「これは大変なことだ」長老は、急いで村人に山に向かって逃げるように伝えました。
西の空が燃えています。立ち昇る煙は空を覆い、富士山ばかりか、太陽さえ覆い隠してしまいました。あたりは夜のように暗くなり、空に広がった暗雲からは稲光とともに、泥の雨が激しく降ってきました。真っ暗な闇の中で、西の地平だけが、赤く輝いていました。

ギャーギャー、鳥は空高く乱舞し、獣も鳴き叫びながら森から飛び出してきました。
やがて、溶岩流の先端は本栖湖やせの海にまで達しました。
ジュワー、ジャバジャバと同時に、激しい爆発が起こりました。
ドドーン、水柱があちこちであがりました。

足の速い魚は対岸に向かって逃げますが、湖水は沸騰した大なべのようになり、大量の魚が死んでしまいました。貝や亀は逃げることもできず、焼け焦げ硬い甲羅さえ消滅してしまいました。
せの海に達した大量の溶岩は東西に長いせの海を中央から真っ二つに分断してしまいました。
鳴沢に向かった溶岩流は大木が林立する林を焼き払いながら、先端は家々をも焼き払いました。

最初の噴火から数ヶ月、大量な溶岩流も御坂山脈に続く山々(現在の王岳や足和田山)にさえぎられてようやく止まりました。

噴煙が覆う空からは、大量の雨が降り注ぎ、灼熱の溶岩を冷ましました。
降り注いでは、激しく蒸発する真っ白い蒸気が地表を覆い、また、雨となって溶岩流の上に降り注ぎました。
噴火が止み、さしもの煙も収まり、富士山と青空が姿を見せました。

鳴沢からの風景は一変していました。
新緑の美しかった森林は長尾山まで真っ黒な溶岩の海と化してしまいました。
鳴沢から駿河へ向かう道も、住んでいた家も跡形もなく溶岩流に呑み込まれてしまいました。

長老たちには逃げる以外、なすすべもありませんでした。ただ、ただ、山に逃げ、鳴り響く轟音と、襲いかかる黒煙と、降り注ぐ泥のような降雨から、みのをかぶり、身を伏せ山神様に静まるのを祈るばかりでした。

せの海は二つに分断され西湖と精進湖になりました。
今でも、西湖と精進湖は水位が同じです。そのことから現在でも溶岩の下でつながっていると考えられています。

広大な溶岩流の大地は、その後、長い年月を経て、青木ヶ原に変わり、初夏には美しい新緑を楽しませてくれます。

(溶岩流に覆われなかった山際に鳴沢、足和田などの村落が再建され、現在に続いていると考えられます。「日本三代実録」などを参考にして創作したものです。鳴沢からの噴火は貞観6年西暦864年の噴火、鳴沢から東方向の噴火は延暦19年西暦800年を想定しています)

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