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のんびり散策北麓路:吉田口登山道

馬返しから吉田口5合目

(8)鈴原神社〜5合目

昭和初めごろは馬返しと1合目の間に県営の高山植物園があったようだが現在は痕跡すら分からない。また、「馬返スロープ」と呼ばれる初心者用のスキー場があった。「馬返スロープ」はおそらく県営馬返スキー場のことだと思う。「郡内の100年」(写真集)に1枚この写真が載っている。(昭和9年2月28日第1回県下スキー選手権大会)これらの観光施設も第二次世界大戦に向かいガソリンなどのひっ迫によって自動車が運行できなくなり、やがて戦争によって衰退したと思われる。戦後は船津口登山道が開通し、昭和27年河口湖から5合目にバスが運行した。当時の昭和天皇が搭乗し5合目を訪問している。この船津口登山道にもスキー場ができた。富士山麓のスキー場開設は最近のことかと思っていたが、昭和はじめから作っては消えを繰り返していた。この変遷が太平洋戦争と言う特殊事情もさることながら吉田口登山道→船津口登山道→スバルラインと言う道路変遷によるものであったこともなんとなく理解できた。このスバルラインは昭和39年開通。現在スキー場は天神山スキー場が開設されている。

さて、話を登山に戻そう。鈴原神社を富士山に向かう。500mで2合目の御室浅間神社に着く。ここは、勝山村の飛び地で勝山浅間神社の奥宮となっている。拝殿が残っているが現在は荒れ果てていて、さみしい限りである。本殿は昭和48〜49年に荒廃を防止する目的で勝山村の浅間神社境内に移設されている。(写真右)現在2合目には祠のみが祀られている。人がいないと自然に帰るのだろう。拝殿は朽ち果てかけている。周囲の石造さえも倒れかけ、雑草に隠れつつある。それが自然で、今度はその自然が恋しくて人が集まる。時代は繰り返しなのだろうか。御室浅間神社からすぐに釜石と呼ばれる石の窪みがたくさんある沢の橋(御室浅間橋)を渡る。この石の窪みは古富士火山の溶岩流の跡だ。ここから吉田口登山道は佐藤小屋上の辺まで、この溶岩流の上に道が造られている。4合目近くになると登山道を掘った断面に断層が現れ岩盤と砂礫が何重にも重なって露出している場所がある。溶岩によってできた大きな岩盤を割って道が造られている様子が分かる。昔(江戸時代)はこの2合目近くに金剛杖を渡してくれる小屋があったようだがどの辺だったか確認できなかった。相当急坂を300m登ると横道と交差する。細尾野林道である。ここを左に500m進むと途中に「女人天上」入り口があるが分かりづらい。また、細尾野林道から女人天上(写真左)までは細い獣道のような山道を登らなければならず、平成15年現在、途中には倒木もあり、あまり立ち寄り先としてはお勧めできない状況だ。細尾野林道からの入り口に簡単な階段をつけるなど整備を期待したい。林道脇のがけを越えると道は通り易い。「女人天上」は2合目以上の女性の登山を禁止していた江戸時代にここから山頂を遥拝した場所だ。現在もその場所からは山頂を望むことができるが、ほんのちょっとである。細尾野林道の左右にはテンニンソウが咲いている。ところどころにソバナの青い花が見られる。テンニンソウにはアサギマダラやヒョウモンチョウ(写真右)などさまざまな蝶が蜜を吸いに集まっている。細尾野林道は野草や昆虫観察に最適だが、あまり時間をかけていると5合目につけなくなる。先ほどの交差に戻り吉田口登山道を山頂に向かう。すぐに3合目の茶屋跡に着く。なぜか平成15年現在も茶屋の看板だけが残っていた。数年前はなかったので、最近になって看板だけ誰かが置いたようだ。富士山に向かって左が「見晴らし茶屋」右が「蜂蜜や」とあった。そう言えば、富士吉田市内に少し前まで「ハチミツヤ」と言ううどん屋さんがあった。関係があるのだろうか。3合目の茶屋は、昔、中食堂と呼ばれていたところだ。江戸時代にはもう1軒が、この先にあったようだ。江戸時代から明治にかけて記録された文書によると3合目の茶屋は「藤本屋」と「うめ屋」と呼ばれていた。どこかで代わったのだろうか。大正時代の絵葉書(左下)を見ると2軒の茶屋の突き当たりに金剛杖の押印所のような建物があった。昔はここから河口湖などの展望が良かったようだが、現在は前の木が邪魔してあまり良く見えない。「蜂蜜や」と看板のある茶屋の手前に長いすがあり、休憩場所となっている。すぐ前は斜面でかなりの下りになっている。手前のもみの木など高い木が無かった時は、ここからの見晴らしが良かっただろうと思う。目を斜面の下に向けると枯れた大木が横たわっている。しばらく、椅子に座って待っていると、この大木に小鳥がやってくる。小鳥の格好の遊び場のようである。

3合目の茶屋を出るとすぐに小さな沢に架かる橋を渡る。細尾野橋と名がついていた。橋を渡り4合目に向かう。登るにつれてコウモリソウが増えてくる。足元を良く見るとマイヅルソウがかわいい実をつけていた。3合目から1km弱で4合目だ。4合目に近づくに従って足元の様子が変わってくる。大きな岩盤の上を通ることが多くなる。場所によっては、岩盤が削り取られて砂礫が顔を出している場所もある。古富士溶岩流の上に登山道ができていることが良く分かる場所だ。4合目を過ぎ登山道を登ると平らな場所に5合目焼印所とある大きな建物前(写真右)に出る。傍に岩がそそり立ちその上に祠が祀られている。御座石浅間だ。御座石を過ぎるといくつかの建物跡を過ぎたところで広い舗装道路に出る。滝沢林道だ。ちょっとがっかりするが他に道が無いので舗装道路を右に進む。カーブした先に藤森神社がある。その先に吉田口登山道の標識があるので、再び山道に入る。ほんの少しで再び滝沢林道の最終地点にでる。すぐ上に佐藤小屋が見える。その入り口に5合目標高2305mの表示がある。4合目から800m余りである。ところで5合目ってどこだろう。御座石小屋には「五合目焼印所」とある。ここが5合目と思ってしまう。1848年以前の文書には現在の佐藤小屋の下あたりに中宮と呼ばれる建物があり、そこを5合目としていたようである。手前遠方には小御岳が見える。スバルラインから入った道と合流する。
佐藤小屋のはるか上空に山頂への茶褐色のそそり立つ山肌が見える。昔はこのあたりを「天地の境」と呼んでいた。下の写真(左)は大正時代の絵葉書で5合目のものだ。左の茶屋に「天地の境」と看板がかかっている。現在の藤森神社から少し下ったところのものと思われる。ここからは樹木が殆ど無い砂礫の上を山頂に向かう道に入る。急ににぎやかな声とともに、大勢の登山客が周りにあふれる。外人も多い。なぜか下界に下りたような気分になってしまった。富士山頂(写真下:女人天上からの富士山頂)を仰ぎ見て、今回は今来た道を再び帰路についた。

次は五合目から紹介する

参考にした資料:富士吉田景観野外博物ランド、田子山富士、高山彦九郎富士山紀行、富士真景の図、富士吉田市文化財調査報告書第3集、富士講の歴史、富士山明細図などです。なお、古い写真は瑞穂通信所蔵のポストカードを使いました。

○01富士吉田駅→金鳥居 ○02金鳥居→はなや ○03はなや→浅間神社 ○04浅間神社→泉水 ○05泉水→馬返し 
                                                     

○06馬返し→鈴原神社 ○07鈴原神社→五合目 ○08五合目→六合目 ○09七合目 ○10八合目→山頂
                     
(本文)
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