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のんびり散策北麓路:吉田口登山道

吉田口登山道富士吉田駅から浅間神社

(2)金鳥居から吉田うどん「はなや」
石柱の場所から左下へ通りが続いている。吉田の街へ下る本通りだ。この通りを下って右前方に「旅館吉田屋」の看板がある。古くからある宿で、昔の風情を残している数少ない旅館だ。(2009年現在吉田屋旅館は取り壊されてありません)金鳥居をくぐり、登り勾配の街、上吉田を登る。上吉田の街は昔昔になるが1572年に雪代(ゆきしろ)被害にあってこの地に移転したと言われている御師(おし)の街だ。江戸時代は中央に小川が流れ、段段の街であった。横浜開港記念館に当時の上吉田の写真が残されている。(上吉田の変遷参照)富士山に向かってあがり勾配の本通には石段があり、家々の屋根には大きな石が並べられているようすが写っている。この道は明治に入り中央の小川は端に移され、段段も坂道にならされた。交通手段として馬車が出現し車社会に入ったためだろう。明治に入って段々が取り払われた当時の絵が残されている。まきを車輪にした手押し車(ゴダ)を押す人が描かれ江戸時代との違いを垣間見ることができる。明治36年から大正を経て昭和4年までこの道路の中央に馬車鉄道(都留馬車鉄道、大正9年富士電気軌道に改名、昭和3年には富士山麓電気鉄道と改称し、翌年昭和4年現在の富士急行線の場所に新路線を開設した)が走っていた。現在はその面影すらないが金鳥居の下を走るレール跡の写真は多数残り当時を思い起こさせる。(写真上:明治39頃の金鳥居、絵葉書)

馬車鉄道

軽便(けいべん)鉄道の一つで明治36年から昭和4年にかけて大月−西桂−籠坂間を鉄道馬車が走っていた。(吉田−籠坂間は昭和2年廃線)昭和4年に現在の富士急行の前身となる富士山麓電気鉄道が開通して、鉄道馬車も姿を消し、レールも取り除かれ現在のような舗装の道路となった。(舗装されたのは昭和の中期で昭和初期は土道だった)馬車鉄道は当時大月から西桂を経て籠坂峠から御殿場まで通じていた。また、本栖湖方面には富士吉田から鳴沢まで通じていた。馬車鉄道は大正後期には電化され、その後自動車に取って代わられるまでは主要な交通手段だったが現在では記憶に残っている人も少なくなっている。

刑部旅館(2009年現在刑部旅館は取り壊されてありません)

金鳥居から600m程度登った右側に「刑部旅館」の古い看板がある。「刑部旅館」は大正時代にも観光客を向かえた古い旅館だ。現在は営業していないようだが、看板や建物は当時の風情を残している。昭和4年富士山麓電鉄が開通した当時と思われる「刑部旅館」パンフレットによると一泊が二円〜五円とあった。この当時は富士吉田駅が終点で登山者はここから徒歩、自動車、馬車あるいは乗馬にて富士山に向かった。上吉田はそうした登山者のための宿の街だった。登山者の中で富士山を信仰する「富士講」の人たちを世話した宿が御師(おし)の家だ。

御師の家

「刑部旅館」を前後して背の高い石柱の門構えの家が両側に何軒もある。これが御師の家だ。御師の家の特徴は、この門構えと、門から長い入り口「辰道(たつみち)」があり、途中に小川が流れていることだ。富士講の人たちは、この小川で身を清めてから富士登山に臨んだそうである。金鳥居から登って右側に「菊田」と表札のついた門柱が目に付く。そして「大注連」(写真下)「小澤」と御師の家が続く。何軒かには現在も富士講の人たちが訪れている。「刑部旅館」を過ぎやがて国道138号線との交差点に近づく頃、左側にその内の一軒「ま北」がある。現在御師の家はやっていないが、時々家をギャラリーにして内部を公開している。この家は江戸、明治、大正、昭和と時代とともに増改築をしてきた様子がわかる。以前ギャラリー開催のときお茶をいただいたが富士講の人たちに出していた昔の食器で味わいがある。(「まきた」では時々富士山関係のセミナーや絵の展示会をしている。その時が内部を観察するチャンスだ。電話などで確認してみよう。もしかしたらチャンスに恵まれるかも知れない。)すぐ近くに御師の家「小佐野」がある。「小佐野」家は重要文化財に指定されている昔からの家だ。1861年の建築とある。門柱の隣に富士吉田市教育委員会の説明板がある。「小佐野」を過ぎて右側に吉田うどん店の一つ「はなや」がある。

吉田うどん

吉田うどんの起源は定かでないが明治時代の富士山紀行には「アイゼンでうどん」を食べた記録があるので、明治時代には茶店でうどんを出していたようである。

今日のように近くの人がうどん屋に通うようになるのは昭和になってからだ。平成の現在は富士吉田市内だけで50軒以上のうどん屋がある。その中でも「はなや」は昔からのお店だ。すぐ裏の通りに平成に開店したうどん屋「むさし」がある。富士吉田駅の近くには「研考練」がある。はしごをして食べ比べてみたら面白い。吉田うどんは太い麺で、硬め、茹でキャベツが乗っているなど他の地域のうどんとは異なる独特の風味を持っている。お祭りでもお葬式でもうどんが出た。最近の葬式は民営のホールで行うことが多くなり、都会風の進行になったのでうどんがでなくなった気がする。喫茶店でもうどんがメニューに載っている店があるなど、うどんは富士山と並ぶ富士吉田市の名物になっている。富士登山へ向かう昼食に吉田うどんを食べると昔の人たちの気分に触れることができるかも知れない。吉田のうどん店に入って吉田うどんを食べるときは、ずうずうしいぐらいでないとうどんにありつけないところもある。多くのお店が座敷に低いテーブルを置き、そこで食べる形式だ。ところが座って待っていても注文を取りに来ない場合さえある。最近のお店はテーブルごとに注文用紙が置いてあり、お客さんがそれに数量などをメモして窓口に持っていく方法が増えた。昔からのお店にはメニューも注文票もない店がある。しかも、店員さんもいない。こんな店ではいくら待っていても注文すらできない。他のお客さんがいれば、どうして注文したらよいか聞くと良い。最近のうどん屋さんは、サービスが良くなっているので、こんなことも少ないと思うが、店主はうどん作りに忙しく、店員も家族だけでやっているので、なかなか手が回らないのだろう。また、メニューのないお店はメニューが必要ないのだ。一品しかないのだから。吉田うどんの店は忙しい。それと言うのも多くの店で開店時間が午前11時〜麺が終わるまでなど短時間の営業でお昼休みにどっと人が来るためだ。とにかく落ち着いて食べる雰囲気ではない。それも吉田うどん店の特徴かも知れない。最近はお店が乱立ぎみなので、ゆったり食べることができる店もあるが、そう言う店は、だいたいはやっていないか高級路線の店なので、吉田うどん店の気分を味わうのには向かない。安くて、熱くて、早い、その上うまいと言うのが吉田うどんだと言える。

○01富士吉田駅→金鳥居 ○02金鳥居→はなや ○03はなや→浅間神社 ○04浅間神社→泉水 ○05泉水→馬返し 
                      
(本文)
○06馬返し→鈴原神社 ○07鈴原神社→五合目 ○08五合目→六合目 ○09七合目 ○10八合目→山頂
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